尼子残党から大名となった亀井茲矩の「功名心」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第87回
■関ヶ原の戦いで見せた「功名心」
関ヶ原の戦いが起こると、茲矩は家康方として戦います。関ヶ原での本戦後に、旧知の関係にあった長束正家(なつかまさいえ)が籠る近江国水口岡山城の攻略を担当しました。しかし、長束勢が強勢だったため、茲矩は旧縁を利用して、本領安堵を前提に開城させます。そして、正家たちを捕縛して自害させると、そのまま城を攻め滅ぼしたと言われています。
また鳥取城攻略が難攻した時には、西軍であった斎村政広(さいむらまさひろ)を調略して寝返らせると、これを援軍に加えて攻めています。城下町を焼き討ちするなどの強行策により、攻略に成功しています。
ただし、この強引な策が戦後に問題となりました。そして、西軍から寝返った斎村政広だけが責任を負って自害させられます。これは、茲矩が政広に罪をかぶせたためとされています。
結果的に、亀井家は大幅に加増され因幡国鹿野藩3万8000石の大名となる事に成功した一方で、「功名心」に溢れた多くの逸話が後世に残されることになりました。
■「功名心」が生む弊害
茲矩は尼子家の残党として、領地を追われ苦しい状況の中で戦いながら、秀吉から認められて、小規模ながらも大名となっています。
関ヶ原の戦いでは調略を用いて、難攻の水口岡山城と鳥取城を攻略したものの、後世に残された逸話により、その印象を悪化させています。
現代でも「功名心」にはやり、早急な処置で結果を出す一方で、その過程で周囲に遺恨を残してしまう例は多々あります。
もし、正家も政広も自害していなければ、茲矩の評判も今とは違ったものになっていたと思われます。
ちなみに、領主としての茲矩は新田開発や産業振興を積極的に行い、60歳以上の領民を城でもてなすなど善政を敷いたと言われています。
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